建築の実現にはさまざまな困難が伴います。多くの制限でがんじがらめですが、実現されるという画期的なできごとによって、問題点が敷地所有の場所の魅力に一変してしまうことがあるのです。
「鹿谷の家」は崖下の鋭角的な三角地で街路樹の桜が敷地に侵入していましたし、「小山歯科医院」は既設建物までも敷地条件の一部として増改築し、新たな建物に変身しました。
とりわけ1998年に竣工した、「頭陀寺の庭」はハンディそのものを逆転させようという試みでした。頭陀寺は遠州きっての古刹ですが、幾多の戦乱によって焼失を繰り返しています。近年、都市化に伴う土地区画整理事業によって「境内」と「墓地」に分断されました。しかし分断されたという受身の発想をやめて、ここを通る人はみな寺に来てくれた人だと考え、かえって地域の人々との交流が深まるしかけを工夫できる機会ではないかと思いました。そのためにはこの場所が足早に通り過ぎる所ではなく、親しみがわく所でなくてはなりません。まず、この場所の独自性を明確にしてから、具現化の方法を考えてみることにしました。最初に「境内」を水平の庭、「墓地」を垂直の庭とイメージしました。「境内」での水平的といえる日常生活に対し、「墓地」は垂直的な想像力が飛躍する象徴的な場所ではないかと考えました。つまり「境内」日常的な営みの場で寺としての伝統的な様式を要求されるところであり、そこは収束的ではなく、むしろ散漫に水平に広がっていくところです。一方、「墓地」は輪廻を思うものが命の連鎖を信じ、死者を弔い先祖を偲ぶ象徴的な場所としてあります。信じるということは、次元を超える飛躍であって、それはきわめて垂直的だと思うのです。このようにそれぞれの特性を明確にして、分断している道路を頭陀寺の内部にしようと考えました。そのためには限られた予算と狭いスペースを乗り越えるアイディアが必要でした。日常的で伝統的な「境内」は鉄筋コンクリート造の白壁として寺の基調としました。公道の内部化は最大の目的であるので、公道の内部に面して池や庭を配置しました。二箇所の出入り口も内部化するためのしかけで、緑のトンネルによって「境内」と「墓地」が繋がることになれば、理想的です。
非日常的な「墓地」は、赤サビた鉄板による平面的あるいは立体的なフレーミングによって解放性と閉鎖性を調節しました。外部からは墓石は見えませんが、いったんこの道路に入れば通りすがりに手を合わせることができます。フレーミングによる陰影感や視差、あるいは遠景と近景の並置による遠近感といった人間の認識の特性にも着目し、逆に囲うことによって、限られた空間を拡げようとすることでこの道路に閉鎖感を感じさせないのです。かつてここは老朽化したブロック塀や万代塀によって囲われ、人々が足早に通り過ぎる所でした。しかしいま塀抜き水が流れる池と、シャープな赤サビの鉄板による開放的な構成がなされ、鋭角的な墓石が垂直方向へのリズム感を増幅しています。正月に取り替えられる青竹は、人々に新年の訪れを知らせます。また墓地の軸であるしだれ桜や入口の百日紅が季節ごとにみごとにみごとな花を咲かせ、墓参りの人々を迎えています。池にはメダカも泳いでいて、ささやかなオアシスとなっています。ここを通る人はすべて寺に来てくれた人にちがいないと思うのです。