WOOD(ずだじこども園)で AACA賞の奨励賞をいただき、ありがたく思います。よき理解者である理事長は、浜松の真言宗青林山頭陀寺の住職です。既設の幼稚園は2001年に竣工していますが、新設の保育所と連携して認定こども園となりました。
理事長は画廊にも通い、現代美術にも造詣が深い。1997年に遡りますが、頭陀寺の塀の設計の依頼を受けました。伝統的な塀について調べましたが、寺の塀には確固たる様式がないようでした。そこで私はランドスケープの物語を作り、独自に塀を構成することにしました。
1970年代、頭陀寺は土地区画整理事業で境内と墓地を公道によって分断されました。しかし発想を転換して、そこを通る人は寺に来てくれた人と考え直しました。その道を内部化し、散策路として魅力あるものになれば、地域の人と寺の交流は深まると思いました。
それぞれの場所の独自性を明確にするために、境内を「水平の庭」、墓地を「垂直の庭」とイメージしました。境内は日常生活と密着し、人の日常的な行動の場として寺の伝統的な様式を要求され、水平的で散漫な広がりがあります。一方、墓地は死者を葬り、先祖を忍ぶという次元を超えた非日常的な飛躍がなされる場であり、垂直的な特性があります。
境内の塀は瓦をのせたコンクリート造の白壁、墓地は赤錆の鉄板で構成され、池は散策路のオアシスになっています。かつて、そこは万代塀によって囲われ、夜は暗く人々が足早に通りすぎる所でした。いまや境内と墓地を分断していた道路に閉塞感はありません。いったん道路に入ると、人の眼の特性によるフレーミング効果、視差による遠近感や陰影効果により、囲うことによってかえって空間が拡がっています。
正月に取り替えられる青竹は新年の訪れを教え、春のお彼岸には、墓地のしだれ桜が人を誘います。池にはめだかが泳ぎ、散歩の人々が一休みする場所となっています。もう「頭陀寺の庭」を通る人はすべてお寺に来てくれたと考えてもいいのではないか、と思うのです。
頭陀寺は703年に圓空上人によって開創されました。ご本尊は薬師瑠璃光如来。文武天皇により勅願寺に定められ青林山頭陀寺と名付けられました。863年、清和天皇により定額寺に指定され、現在の頭陀寺町に移ったのは1000年と記録にあります。古刹としてその時代の支配者の庇護を受け、戦乱のたびに焼失しては再興されています。今川、豊臣、徳川、それぞれに200石を与えられていました。
特筆すべきは豊臣秀吉です。秀吉は織田信長に仕える前、15歳から18歳(天文20年から23年)まで3年ほど、頭陀寺城の城主、松下加兵衛之綱の父、長則に武家奉公していたと、徳富蘇峰の「近世日本国民史」に出ています。20年後,之綱(ゆきつな)は長浜の秀吉のもとに招かれます。長篠の戦いに参戦し、3000石、6000石、ついには遠州久野城の城主16000石にとりたてられました。秀吉はかつての恩に報いると同時に、信頼して部下になってくれる之綱は願っても無い存在でした。
また之綱の娘、おりんは柳生但馬守宗矩に嫁ぎ、柳生十兵衛を生んでいます。それは之綱が松下常慶安綱の姉か妹を娶り、安綱と義兄弟であったからです。安綱の配下は家康の草創期の「影」の集団で、秋葉神社の神札配りに変装して各地を巡り、情報収集していたといいます。安綱の「奥勤」の意味は家康の身辺警護で、台所奉行とはそんな役割でした。その役職で信頼と実績を積んだ安綱の子孫は、代々直参旗本として、治安維持の役職の「火付盗賊改め方」を勤めています。
WOOD(ずだじこども園)のルーツはこども園の理事長です。理事長のルーツは遠州きっての古刹の頭陀寺です。頭陀寺のルーツは飛鳥にまでおよび、現代に生きる私たちにつながっています。WOOD(ずだじこども園)もそんな歴史の一コマの姿に違いありません。