9月の上旬、久々にフランスを旅しました。ニースから入ってコートダジュールを出発点に、マルセイユ、リヨン、ロンシャンからパリへと、途中ロマネスクの修道院を訪ねながら、北上しながらコルビュジエの建築を巡る旅です。副産物も多く、なんとアルルでは、ゴッホがアブサンを毎晩飲んでいたという「夜のカフェテラス」のカフェを覗くことができました。
まずコートダジュールのカプ・マルタンの休暇小屋(キャバノン)を訪れました。隣に4畳ほどの仕事小屋を作ったのは3年後の1954年です。カプ・マルタンの海は明るく輝いてとてもきれいでした。そしてコルビュジエは覚悟の入水と直感しました。
1955年、コルビュジエが68歳の時、ロンシャンが竣工しました。1952年にドメニコ会のクチュリエ神父がラ・トゥーレット修道院の設計を依頼しています。この時,神父はコルビュジエにロマネスクの修道院のル・トロネの聖堂を見て欲しいとの要求がありました。それは装飾なしで聖なる空間を作ることの依頼です。装飾を使わず、壁や柱,床や天井と言った建築要素で空間をつくることは、抽象化作用で設計をするというモダニズムの考え方です。
たぶん1955年の自分と妻の墓の設計は仕事小屋だと思われます。その頃、スタジアム・フィルミニ、ユニテ・ダビタシオン、国立西洋美術館、サンピエール教会、カーペンター視覚芸術センターの設計が進行中でした。
1957年に妻のイヴォンヌが亡くなり,3年後には母が100歳で他界しました。コルビュジエはずいぶんふさぎ込んでいたそうです。しかも亡くなる直前には、24歳の時の膨大な「東方への旅」の出版を決意し、みずから編集作業を終えているのです。亡くなる数週間前には兄への手紙には「私が願っているのは、品のいい表現ではないけれど,ある晴れた日に私は倒れて死ぬ」と書いています。
「建築家の種」は発想を具現化する源だと考えています。そして語るべき動機を持っている者が建築家です。建築を実現するためにコルビュジエはドミノシステム・シトロアン住宅・フォワザン計画・近代住宅5原則・モデュロールを、設計を実践しながら構想し、理論武装したのは保守的な環境の中で自分自身をプロパガンダするための戦略でした。理論化は大衆が主役になった20世紀に有効な建築作法の武装であると言えます。
理論が必ずしも作品と全ては整合しないのは、原則にかならず例外があることと矛盾しません。最後にパリ近郊のポワシーで見たサヴォワ邸は近代住宅5原則の実践として有名です。外部からはドミノ・システムのように見えますが、実際には現実問題の解決があり、空間を演出する溢れる創造力と自らの理論との葛藤が伺えます。ここで明らかなのは、実現が第一義であるという「建築家の種」がない理論や知識、設計の延長には「建築」はないということです。
コルビュジエは18歳で住宅を手探りで作ります。第2次世界大戦時には建築を作りたい一心で時の権力のヴィシー政権に近づきます。18年間協働してきたピエール・ジャンヌレとはレジスタンス運動に参加することで二人は決別することになります。「建築家の種」は建築を実現することが第一義で、ケンチクカノサガとしてコルビュジエは建築を実現し、ひたすらその結果を見たいのです。生成の手応えを知っている者だけが、実現への「建築家の種」の衝動を持っているのです。理論や知識は大切なことでありますが,それは「建築家の種」があって初めて意味を持つのです。