株式会社ナウハウス
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ナウハウス所長の鈴木です。今何を感じ、どのように建築に向き合っているのかを伝えていければと思います。
ナウハウス一級建築士の高橋です。設計を通して感じたことや現場の進捗を気軽に綴っていきたいと思います。

〒430-0817
静岡県浜松市南区頭陀寺町330−20
TEL.053-461-3408

2006-10-05
ナウハウスの庭には小鳥がよく集まります。春にはメジロやヒヨドリ、どの季節にもよく見るのがスズメとヤマバトです。スズメなどは家族で来るようで、いつも5,6匹でチュンチュン鳴きながら賑やかにやってきます。パンくずがあるのにじぶんでとりもせず、口を開けて待っているのはどうやら子スズメのようです。体格はほとんど同じなのですが、羽の色が淡く、飛び方もぎこちない気がします。4匹ぐらいが並んで口を開けて待っています。目の前のパンくずをつつけばいいのにそれができないのです。親スズメはパンくずをくちばしで、かわるがわる子スズメの口の奥まで突っ込んでやっています。
 そこへ大威張りで来るのがヒヨドリです。スズメはいったん四方に飛び散ります。ヒヨドリはいつもつがいでやってきて、どちらかが木の上で見張っています。ヤマバトもつがいでやって来ます。ヤマバトがいちばんのどかでおっとりしているようです。えさを食べ終わると、露地の蹲でかならず水浴びをして、時には2匹そろって羽を広げてひなたぼっこ(!)までしています。ヤマバトがいちばん馴れ馴れしく、近くを通っても逃げません。
 メジロの来るのは初夏で、みかんの半割りを梅の木に刺しておきますと、つがいで来て喜んで食べています。味はよく分かるようで,おいしいみかんから食べます。春のメジロの鳴き声はなかなか風流、いいですね。
 こんな風に書きますと、ナウハウスの庭はまるで楽園のように聞こえますが、そのしかけは簡単です。鳥のえさの少なくなる冬に、みかんやパンくずを庭先にちょっと置いておくだけで小鳥が集まって来てくれるのです。そして水盤に水を張っておくと小鳥は大喜びで水浴びをします。事務所のそれぞれの窓の前に餌台を置き、スタッフが眺められるようにしてあります。小鳥たちは動くオブジェのようで、やりとりを見ているとけっこう飽きないものです。
 ナウハウスでは住宅の計画をするときにはかならず鳥寄せのしかけをすることにしています。おおげさなしかけではなく、実のなる木やバードバスを置くだけで小鳥たちは集まってくれまのです。早朝、わたしが庭に出ますと、どこからか見ているのか、チュンチュンと餌をねだる小鳥の声がするのです。思うのですが、小鳥の鳴き声もまさしく自然の一部であり、緑や風と一体になって、すごく豊かな自然があるように感じられるのです。小鳥の催促を無視もできないので、パンくずや米粒を台の上に置いてやりますが、そのとき忘れてはならないことがあります。たよりないのですが、わが家にはラブラという番犬がいます。10歳になるラブラドール・レトリバーですが、いっしょにパンの一切れをもらわないと、アレッというような顔をするのです。
 住宅に自然を取り込むことを大げさに考える必要はなく、一本の木や数個の石や苔からでも庭つくりは始められます。そこに小鳥が来ると、自然が倍増したように感じられるのです。今年の冬から鳥寄せを始めてみませんか。楽しみが増えますよ。

2006-10-03
池田20世紀美術館で大岩オスカール幸男展が開かれているということで電車とバスを乗り継いで伊豆の伊東市まで出かけてまいりました。「見えない反射」というタイトルで、「世の中のできごとの撮影された映像を見て情報を得ていることは本当の現実の反射を見ていることではないか」いうムズカシそうな展覧会でした。
 入れ歯、テクノザウルスの足跡、リサイクルのゴミウィルス,燃えるごゴミウィルス、栃の心、フルーツ、男と女、フラワー、パン・デ・アスーカル、男、トンネルの向こうの光、動物園、モンキー、お客様、古代美術館の入口、橋のかかった風景(レンブラント)、メデュース号の筏(ジュリコー)、太陽(ターナー)、温室効果、戦争と平和、きのこ、島、白雪姫、滝、壁、スパイラルといった言葉をイメージさせる日常の風景を暖かい眼で、しかも無防備なタッチで、ユーモアたっぷりに、しかし鋭く見立てています。 
 よく分からないのですが、最後の絵は「反射」というタイトルがつけられ、ハリケーンかなにかでやられた家屋が、点対称にひっくりかえって対比されています。なかでも「戦争と平和」は、郊外の日常の風景の夜と昼を、それぞれ戦争と平和に見立てていて、その対比の効果がすばらしく感動しました。それぞれが2m×4mを超える大きな絵で、左右を注意深く見比べていくと夜の暗闇の絵画的利用で、トラクターに積んだ材木が大砲のように見えたり、案山子が墓地に立てられた十字架のように見えるのです。右手のこんもりと茂った豊かな樹木はなんときのこ雲に変身しているのです。それらが時間をかけて丁寧に描かれています。深刻ぶっているのでもなく、心をこめて画家の見たイメージが描かれているのです。いたるところに垣間見えるウィットがこの絵を支えています。
 オスカールさんの絵がパースペクティブで、しかも光への意識が強いと思いました。はたして彼はサンパウロ大学の建築学部を卒業していて、空間の意識が身近に感じるのは、なるほど建築的アイデアを絵画に応用しているからに違いないと思いました。「見立て」とか「対比」とか「パースペクティブ」とか「光への意識」はすべて建築を構成するキーワードです。
 じつは大岩オスカール幸男さんは、住宅の設計をナウハウスに依頼された、30代前半のクライアントに「希望する住宅のイメージ」として渡された雑誌に特集されていた、現代美術のアーティストでした。本だけではイメージをとらえきれないとの思いでオスカール展を見に来ましたが、大きな作品を前にしてオスカーさんの肌合いだけはつかめたような気がいたします。
 最近、わたしのこれからの現代建築に「余裕のある建築」というイメージが芽生えつつあります。マセた建築、セカセカしたりギスギスした建築はもとより好みませんが、「思いつめた建築」もかなわないなーと思うことが多いのです。新しさや厳しさを競う現代建築の中に、もっとコミュニケーションできる余白が欲しいと思うのです。いまの建築になにか余裕がなさすぎると思います。厳しい条件の中で建築の設計は行われますが、やせ我慢であっても余裕を持とうとする意識を持つことによって、何かの変化が現れてくるはずです。
 オスカールさんの絵の中に、ユーモアにくるまれた鋭いメッセージがありますが、おっとりとしたところがあって、なぜか共感を誘うのです。それはナウハウスにとっては設計の姿勢、もっといえば生きる姿勢にかかわることなのだと思います。オスカール展を見てわたしが得た最大のものは、「これからの建築に必要なものは余裕ではないか」ということを確認したことだと思います。
2006-09-01
三島の佐野美術館で「虎徹と清麿」の特別展があり、はやる気持ちを抑えきれず、朝早くから出かけて参りました。開館から閉館まで、どっぷりと虎徹(コテツ)と清麿(キヨマロ)の世界に浸かり、いろいろなことを考えさせられました。
 虎徹は江戸時代の初期の人で、文化を享受する平和な時代になって、需要の無くなった甲冑師から刀工に50歳で転じた人です。甲冑師ならではの鉄を鍛える技を駆使し、古来の名刀を研究し独創を加えて、当代随一の名工になりました。対して清麿は江戸末期、黒船来航により日本刀の需要が高まった時代に、若くして天才的な才能を発揮し、四谷正宗と呼ばれるほどの名工になりますが、42歳という若さで自刃しました。虎徹と清麿は、日本刀が実用から離れ、再び実用に転じる江戸時代に咲いた二つの華です。
 虎徹は鎌倉時代の正宗の弟子の義弘(ヨシヒロ)に私淑し、明るく冴えた地鉄(ジガネ)に、沸(ニエ)が輝く数珠刃(ジュズバ)の刃文を焼きました。一方、清麿は左文字(サモジ)を理想とし、沸(ニエ)本位の躍動的な刃文を焼きました。どちらも作刀期間は20年程度です。気合の入ったモノつくりの旬は20年間が限度といったところかもしれません。 
 虎徹と清麿の最も大きな違いは、時代背景も異なりますが、作為に対する意識の違いだと思います。清麿が臆面もなくストレートにデザインの意図を出しているのに対し、虎徹には表現を出しすぎず、作為を抑えて自然でありたいと思っているふしがあります。
 清麿は18歳から刀を打ち始め、虎徹は50歳からのスタートでした。清麿が兄真雄(マサオ)や窪田清音(クボタスガネ)というよき師を得て、じっくりと作刀に打ち込むことができたのに対して、虎徹は50歳からの甲冑師から刀工への転職で、その気持ちはなみの決意ではなかったことは想像できます。
 それは営業意識においても影響を与えていると思います。虎徹は出来上がった刀を山野加右衛門に試し切りをさせ、貳ツ胴切落などの載断銘を入れ、刀の切れ味をおおいにアピールしています。しかし清麿は刀の姿や刃文、地景(チケイ)といった焼き刃の働きのダイナミックな躍動感をそのまま表現すること、で作品の魅力をアピールしています。清麿の刀の載断銘はごくわずかです。虎徹にも充分作為を窺うことはできるのですが、清麿ほどにはデザインの意図を直截には出せなかったのだと思います。
 虎徹と清麿の違いは最後には資質の違いにいきつきます。それはそれぞれの名前の中にはっきりと現れている気がいたします。あとから自分で選んだ名前には、美意識や信念や理想といったものが反映されているはずです。「虎徹」名には武運をひたすら祈るといった気持ちを感じる一方、「清麿」名にはよりビジュアルで気位の高さ、いちずな若さといったものを感じます。 
 面白いことに、虎徹は柄(ツカ)を抜いたときの中心(ナカゴ)の目釘穴まで凝っています。瓢箪形をした化粧孔や目釘穴の数によって古色を感じさせる効果なども考えていることなど、建築設計にも通じるしかけ(作為)を連想させて面白く思いました。重要文化財の虎徹は地刃が冴え冴えとし、沸(ニエ)がフワッと柔らかくなんともいえない美しさで、これぞ虎徹だといえるものでした。
 刀の鑑定は実際に使って試すわけではありません。ひたすら見ることによって、良し悪しを見抜くのです。[斬れる]ということを[斬れそうだ]という範囲まで広げて考えると、選択の範囲は一気に広がります。伝統とか経験の蓄積のすごいところは、「掟」を会得すると、見るだけで良し悪しを判断できるところにあります。いい肉屋さんや魚屋さんは見るだけでいいものかどうかを見極めます。ときどきつまむのは確認だけなのです。しかし簡単に試せるものはいいのですが、確認することで失われてしまうことになることも多いのです。
 人にはひとつのことを集中して見続けていると、いつのまにか見えてくるものがあります。人間の眼の進化には驚くほどの可能性があると思います。見るだけで分かるということを「鑑定」といいます。
 見ることで分かるということを建築にも応用すれば、見ること(考えること)で、建築は住む前にさらに建設する前に、住みやすそうだとかいい建築になりそうだということが分かるはずです。イメージや設計の段階でいい建築になるかどうかを見極めるのが建築家の本領です。虎徹と清麿はいずれ劣らぬ才能で,それぞれの個性を発揮し、理想の刀のイメージを明確に持ち、伝統や自分自身の経験の蓄積によってほれぼれする名刀を残しました。
2006-07-26
ナウハウスのある頭陀寺町は豊臣秀吉ゆかりの土地として知られています。秀吉が木下藤吉郎という名前さえ無いころ、15歳から18歳(天文20年から23年)まで頭陀寺城の城主 、松下加兵衛之綱の父、長則に武家奉公していたと徳富蘇峰の「近世日本国民史」に出ています。この後、秀吉は織田信長に仕え、目覚しい出世をしていったことは太閤記にくわしく書かれています。
 20年後,之綱(ゆきつな)は長浜の秀吉のもとに招かれます。長篠の戦いに参戦し、3000石、6000石、ついには遠州久野城の城主16000石にとりたてられました。秀吉はかつての恩に報いると同時に、信頼して部下になってくれる之綱は願っても無い存在でした。また之綱のふたりの妹は、それぞれ夏目次郎左衛門吉信と中村源左衛門正吉に嫁いでいます。夏目次郎左衛門は三方原の戦いで徳川家康の身代わりとなって討ち死にした武将です。中村源左衛門は雄踏町の庄屋の中村家の当主で、徳川家康の側室お万の方がその中村家で結城秀康を生んでいます。 
 また驚いたことに之綱の娘のおりんは柳生但馬守宗矩に嫁ぎ、柳生十兵衛を生んでいます。その縁は之綱が松下常慶安綱の姉か妹を娶り、安綱と義兄弟であることが関係がありそうです。安綱の配下は家康の草創期の「影」の集団で、秋葉神社の神札配りに変装して各地を巡り、情報収集していたといいます。安綱の「奥勤」の意味は家康の身辺警護の意味で、台所奉行とはそんな役割だったのでしょう。その役職で信頼と実績を積んだ安綱の子孫は、代々直参旗本として、治安維持の役職の「火付盗賊改め方」を勤めています。「鬼平犯科帳」の世界です。
 さて、古文書によりますと頭陀寺は遠州きっての古刹で,703年に圓空上人によって開創された、とあります。ご本尊は薬師瑠璃光如来で、文武天皇により勅願寺に定められ、青林山頭陀寺と名ずけられました。「頭陀」とはサンスクリット語からの言葉でトュウダと読み、修行の意味だと広辞苑にあります。修行僧が首に下げている袋を頭陀袋(ズダブクロ)というのはご存知だと思います。863年、清和天皇により定額寺に指定され、現在の頭陀寺町に移ったのは1000年と記録にあります。古刹としてその時代の支配者の庇護を受け、戦乱のたびに焼失しては再興されています。今川、豊臣、徳川それぞれに200石を与えられ、江戸末期までは檀家を持つことはありませんでした。第二次世界大戦の空襲では三重塔まであった伽藍がすべて焼失してしまいました。
 ナウハウスが「頭陀寺の庭」を手がけたのは、70年代の都市化にともなう区画整理の道路によって境内と墓地が分断された頭陀寺のたたずまいをなんとかできないか、ということからスタートしました。私は「分断された」という受身の発想をやめ、この道路を通る人はみな頭陀寺にお参りに来てくれた人だと考えることにしました。ナウハウス一流の負けず嫌いのコンセプトです。時の流れに逆らわず、境内と墓地が分断されたことによって、かえって地域の人とお寺の交流を深めることができないかと考えました。蛇足ですが、ナウハウスのナウは「時の流れに負けないぞ」という気持ちをこめております。
 悪条件を逆手にとるために、道路を「内部化」するしかけを考え、境内と墓地が親しみの持てる場所にしなければならないと思いました。この計画は道路と敷地の「境界領域」だけを操作する前例のない計画で、建築というよりもランドスケープの分野の仕事でした。赤サビの鉄板による塀とRC造の白壁、道路に向いた池(池は内部方向を向くのが原則)と造園による構成は、狭い場所と限られた予算、檀家の理解を得ることから導かれた解決方法でした。
 境内は日常生活と密着し、寺としての日常行動があり、散漫で自由な、どこまでも広がる、水平的な意識の場であるという性格が強いと思います。いっぽう墓地では、人は死者を弔い先祖を偲びます。そこは命の連鎖を信じ、祈りという次元を超える飛躍がなされる場所であります。いわば水平的といえる日常生活が営まれる境内を「水平の庭」、祈りという垂直的な想像力が働く墓地を「垂直の庭」とイメージしました。
 かつて、そこは古びた万代塀によって囲われ、夜は暗く、人々が足早に通りすぎる所でした。境内と墓地を分断していた道路に、いまは閉塞感はありません。いったん道路に入ると、人の眼の特性によるフレーミング(額縁)効果や視差による遠近感、あるいは陰影効果によって、囲うことによって限られた空間が拡がっていることに気がつくと思います。
 正月に取り替えられる青竹は新年の訪れを教えてくれ、春のお彼岸には、「垂直の庭」の中心にあるしだれ桜が人を誘います。池にはめだかも泳いでいて、散歩の人々が一休みする場所となっています。もはや「頭陀寺の庭」を通る人は、すべてお寺に来てくれたと考えてもいいのではないか、と思うのです。
2006-07-06
設計コンセプトとは、理屈っぽくいうと、設計の前提条件とそれによってできた建築の形態的解決を媒介するものです。建築の具体的な形態の背後にあって、それを支え、形態決定のきっかけとなった思考の経過です。いわば建築設計の生産者側の設計という「しかけ」の組み立てで、設計に命を吹きこむ過程です。以下が「おおるり眼科クリニック」のコンセプトです。
 このクリニックは島田市の大井川中流の北岸に位置しています。蓬莱橋も近い。「クリニックはパブリックでありたい」ことを基本方針として、「開かれているクリニック」を具現化したいと考えました。
 周囲の環境や敷地の状況を注意深く観察し、存在を分かりやすくするための「ゲート」を入口に設け、「ルーフ」によって患者をクリニック内部へ誘導することにしました。クリニックの存在を示すゲートは鋼材のSS400を素地のまま使い、サビそのものを仕上げとしました。ゲートの色と素材感は「視認性」が良く、緑と調和して美しい。新年には青竹に替えて、「季節感」を表わします。
 ゲートは正面からはきわめて「開放的」で、斜めからの「存在感」は大きく分かりやすい。ゲートから診察室にいたる「動線軸」と建築の「空間軸」を一致させ、軸の両側に駐車スペース、待合と受付、中待合と事務室、診察室と検査室をシンプルに配置させました。ルーフは雨の日と暑い日には特に便利で、評判がいい。ゆったりとした駐車スペース、開放感のある待合、水溜りをモチーフにした中庭、広い検査室は空間の抜けがよく、患者の気持ちを軽くさせています。    
 中庭の「にわたずみ」は、雨の日には水芸をみせてくれます。出かけることが億劫な雨の日だけの患者さんへの「おもてなし」です。ゆったりとくつろげるスタッフルームは院長の配慮です。
 一方、住宅部分はきわめてコンパクトですが、収納とテラスを有効に配置して補っています。テラスはこの住宅の要であり、クリニックと住宅の「距離感」をとるためにも有効です。双方の雰囲気をガラリと変えたことも、「職住近接」による弊害を軽減させたいと考えたからです。
2006-07-05
 おおるり眼科クリニックが今年の6月で一年を迎えました。中庭(にわたずみ)の池の金魚を猫から守るための相談で、クリニックの奥さんがナウハウスにお見えになりました。その時、クリニックの現況を聞くことができました。来院者が順調に増えていることでまず安心しました。クリニックは、待合が広くて明るく、病院らしくないことが患者さんにとって良いようです。クリニックの建物が看板であるし、クリニックの計画そのものが患者さんへの「おもてなし」の気持ちを表していると聞いて嬉しく思いました。クリニックの空間の構成に先生の患者さんに対する考え方が表れています。
 このクリニックを知ったきっかけを患者さんにアンケートしたところ、ほとんど口コミによる情報でした。開院時の案内看板の設置は最小限でいいというのは意外でしたが、よく考えればなるほどと思います。駐車場が広場のようにゆったりとしていて、駐車しやすいことは、子供を連れて来る若い奥さんには好評です。年配の患者さんは一人で来ることが多いのですが、若い奥さんたちは子供さんを全員連れて来ます。
 待合をホールのような空間にしたことは正しかったようです。[気持ちがいい」とか[来てよかった」とか皆さんが言って帰られるとのこと。このホールでコンサートを開いたこともお聞きしました。
 スタッフの皆さんの雰囲気も患者さんの気持ちをなごませてくれているようです。このクリニックのスタッフルームは、先生の要望でゆったりとしたスペースをとっています。
 開院する時、銀行や医療機器業者まかせにしないことも大切なことです。リスクを恐れるばかり、借り入れを少なくし過ぎて建築のスケールを誤まることが多い。クリニックという事業はほかの事業よりもずっと安全なのです。こわがって萎縮しすぎて始めるよりも、「軌道に乗せることだけを一番の目的として覚悟を決める」ことが大切なのです。
 クリニックの開業のエリアはある程度整理されているし、「治療という専門のノウハウ」をもった仕事は、ほかの事業に比べてはるかに安全なのです。銀行はスタート時の不安に合わせて、借地を勧めたり、とりあえず始められる最小限の規模を薦めます。待合などは特に削られて、外の車の中で待たされることも珍しいことではありません。
 経営で成功するためには、クリニックに「付加価値」を付けることが大事なのです。借地料はけっして安くはないし、後からの増築はうまくいかないことが多い。自分で調べて、自分でを決めることが重要です。独立しようとする勤務医は毎日が忙しいと思いますが、「世間に出る」ためには調査を人まかせにしすぎないことです。自分でできる範囲で聞くだけでもずいぶん気持ちが楽になると思います。リスクを恐れすぎると将来への展望も開けないのです。借地の場合20年経っても自分の土地にならないことは、リスクを負って働く人にはりあいのないことではないでしょうか。
 眼科のクリニックの立地についても、患者は老人が多いので駅に近いことは重要ですが、何人かで車で来る患者さんも多いので、駅から歩けるほどほどの距離で、ある程度の駐車場を確保することを忘れてはなりません。
 また結果的なことですが、調剤薬局を特定しなかったこと良かったようです。すべての薬局とおつきあいができることは、情報を交換できることで、多くの縁を得られるのです。薬局からの患者さんの紹介はありがたいことで、広く散らばった患者さんの口コミは強力です。
 一年経って、おおるり眼科クリニックの経営は軌道に乗ったようで安心しました。とりわけ急患に対する先生の対応や手術後の予後のていねいな処置には感心いたしました。このクリニックが順調な成長をしていることのいちばん大切なことをお聞きしたような気がいたします。
 梅雨ということで雨が続いています。雨の日が楽しい「にわたずみ」が大活躍しています。頭陀寺の池の浮草をたっぷりとクリニックの池に入れてもらうことにしました。金魚と浮草が池に彩りを添えてくれるでしょう。「雨の日が楽しい」すばらしいことです。おおるり眼科クリニックは、雨の日に行くと[水芸」が見れますよ。
2006-06-28
建築雑誌で知ったTHE JAMの企画の「メキシコと米国西海岸の旅」に行って来ました。1978年のアメリカとヨーロッパの一人ぼっちの建築貧乏旅行から、4半世紀を経てロサンゼルスに降り立ったことになります。空港のサーリネンの展望台をふたたび感慨深く見ることができました。ラ・ホヤでは、前回の旅では遠すぎて見ることができなかった、カーンのソーク生物学研究所を見ることができ、建築の確かさに感動しました。
 しかし、なんといっても今回の旅の収穫はメキシコのバラガンでした。「光」、「水」、「壁」、「階段」あえて言えば陰影としての「色彩」といったデザインの主要構造によって、空間の密度を上げているのを目の当たりにして、疑い深い年齢になった私も、感動でしびれました。百花繚乱の建築が咲き乱れる日本に住んでいて、単純にすばらしいといえるバラガンの建築、ロス・クルベス、ロペス邸、カプチーン派修道院、バラガン自邸、サン・クリストバル、シティタワー等を見て、日本の「花」に対してバラガンの建築は「果実」そのものなんだと思いました。バラガンは私に建築にあるべき空間の質のレベルを教えてくれたような気がします。
  R・リゴレッタの事務所も訪ねることができました。いくつかの建築を見ましたが、バラガンとは建築家としての資質も違いますが、時代の要求や仕事量の違いも強く感じました。メキシコと日本では建築に要求されるものが異なるでしょうが、時代や風土を越えて私を感動させたものは、きちんと性格づけられた、自由でリアリティのある空間だったと思います。
 かつていい建築というのはいい「文体」を持っていることを学びました。しかし、今はいい「スタイル」がいい建築をかならずしも保証しないことも知っています。今回の旅で見たライトのエニス邸やバーンズ・ドール邸の空間が、バラガンよりはるかに均質で流れすぎていて、存在のリアリティが希薄でした。もっと小規模のストーラー邸が良かったのは、たとえば施主の要求とのストラグルがライトの建築にコクを与えさせたものかもしれません。一方エニス邸やバーンス・ドール邸は設計者の論理で作りすぎたように思いました。
 自由(軽い)とリアリティ(重い)はしばしば矛盾をおこします。しかしこれらが同居できたときに、存在感を生みだすのではないでしょうか。こんなことを思いながら毎日の仕事をしています。いま乗り越えなければならない壁を前にして、バラガンがたどりついた境地に思いをはせています。
2006-06-14
日本建築家協会東海支部より、住まいを作ろうとしているための建築家の紹介のための本が9月下旬に出版されます。そのための原稿ができましたので一部をひと足先にご紹介いたします。
2006-04-01
現場MVP―王ジャパンにあやかって
 去る3月30日、「本郷の家を味わう会」を開きました。建築工事において、実際に作業をする職人さんたちは、完成後の姿を見る機会が意外にないものです。そこで引渡し前、最後に現場に集まり、直接の仕事から離れ、完成して見違えるようになった建物を見て、どのような印象かを話しあう機会を持ちました。
 薄暮から日がすっかり暮れるまで、建築がどのように変わり息吹いていく様子を見て、仕事の時とは違う見え方がすることに気がついて欲しいと思いました。すべての照明を灯し、床暖房のスイッチを入れ、エアコンを全開にして様子をみました。植栽が入り水盤がゆらめき、灯りがともっていきいきと変身した、自分たちが手がけた建物を見て、感嘆の声が上がっていました。個々の仕事をていねいに編み上げていくと、こんなにも化けてしまうものだということが「自分たちがやった仕事ではないみたい」という言葉に表れています。
 その後、ナウハウスで直会(なおらい)を開きました。信じられないと思いますが、ナウハウスには能舞台まがいの「飲舞台」があるのです。おいしいお酒を飲むための専用の場所です。作ったばかりの「雨楽庵」の露地が隣接しています。
 「本郷の家」を見た余韻もあってにぎやかな宴会となりました。皆さんが持ってきてくれた、とっておきのお酒とメダイの粕漬けや漬物、そしてお刺身や焼き豚などが並びました。
 自分を取り巻く環境、いいかえれば制約条件が常に変化していることで、過去にうまくいったことがこれからもかならずしも成功するとはかぎりません。状況の変化をよく見て、変化に対応していかなければならないことが話題となりました。
 周囲が変化しているのに変われない理由として、変わる必要性が理解できないこと、変わることを恐れすぎること、どう変わっていいのか迷っていることの三つがあると思います。変わるために試みること、それに伴う失敗。
 「失敗」に対するナウハウスの考えを述べました。新たな試みをする場合、失敗はつきものです。失敗が致命傷であってはいけませんが、[痛み]や[悔しさ]を感じた失敗は次には「生きた知恵」になることが多いと思うのです。「体感」とか「実感」しながら身に着けた知識は応用がききます。これは「いい失敗」です。一方「悪い失敗」は、まったくの不注意によるケアレスミスで、[痛み]や[悔しさ]を感じないので何回も繰り返してしまう失敗です。
 [本郷の家を味わう会」の最後に、王ジャパンにあやかって、「本郷の家」の「現場MVP」を選ぶことにしました。現場では、みなさんには何回も手直しややり直しをお願いしました。現場で苦労した人の中から、特にひとりを選ぶということにしました。その結果、いろいろな工夫で現場に風を吹き込んでいる「本郷の家」の現場担当者の高橋敏彰さんが第一回の「現場MVP」に決まりました。記念品として腕時計をプレゼントいたしました。
 日が変わるまで話がはずみました。これからは、それぞれの職人が、完成した建物をイメージして個々の仕事をするということで、現場に変化が起こることを期待したいと思います。
2006-03-23
JIAが新たに設けた日本建築大賞の公開審査が2月25日建築家会館で開かれ、そのプレゼンテーションとヒヤリングを拝聴してきました。ナウハウスは「ZOOO」を出しましたが、472作品中、23作品までの選考に残りましたが、現地審査対象の7作品に残ることはできませんでした。審査委員は鈴木博之さん(建築史家・東京大学教授)、上田実さん(住まいの図書館出版局編集長)、五十嵐太郎さん(建築史・建築批評家・東北大学助教授)です。
 日本建築大賞には妹島和世の「梅林の家」、日本建築協会賞には陶器二三雄「国立国会図書館関西館」、日建設計の櫻井潔「泉ガーデン」、芦原太郎・北山恒・堀池秀人「公立刈田綜合病院」が選ばれました。住宅や地域開発レベルの高層ビル、公共建築といった、規模も目的もまったく異なる建築を一同に並べての審査でしたが、おおむね合点のいく結果でした。なぜならそれらの作品は、その建築家にとって重要な、ピークを示す作品であるし、建築の可能性を広げていることを評価していることに納得がいきました。
 [梅林の家]などは5人家族のための16mmの鉄板製のモノコックの立体的なワンルームで、薄い壁ならではの新たな空間効果を生んでいます。薄い壁には内壁と外壁共に大小の開口部が開けられ、隣の部屋の風景が開口を通して絵画のような錯覚をさせています。小さく、薄いスケールで、開口部と壁の閉じているような、開放的であるようなアンビバレントな印象を持たせています。このような空間意識の拡大は建築にとって創造的であり、意味のあることだと理解できます。そしてその曖昧性はその住宅の内部と外部の両方に働いていて、確かに建築の既成概念を打ち破っていると思うのです。
 多くの必然性があって妹島さんは鉄板によるモノコックの住宅を設計したのだと思いますが、新しいことに建築の価値の多くを置いている妹島さんならではの解決方法だと思います。妹島さんは勇敢な探検家なのです。多くのことを犠牲にして、新しい空間効果を獲得しているのです。
 ナウハウスも創造的なことにもっともっと参加したいのですが、自分にあった切り口でなくてはならないと考えています。時が移り、周囲の状況は刻々と変わっています。温故知新といいますが、既成概念を見直して、ケレン味のない新鮮な建築を見つけることはできないのでしょうか。
 振り子がどちらかに振り切ったときではなく、最もスピードに乗ったときの、いいタイミングをとらえた、イチローなみのヒットは不可能でしょうか。大賞の公開審査に立ち会ったことは、ナウハウスの設計へのスタンスを考えてみるよい機会でした。そしていままでどおりの方針でいいのだと思いました。
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