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勾坂邸
地と聞の逆転
“All of me"、匂坂氏がこの家に残した言葉である。5年前の’ 86年のクリスマスパーティーで夫妻と「夢の住宅」をめぐって語ったのが、匂坂ホールの生まれるきっかけである。匂坂氏はギターの名手で、浜松には生の背楽を聞かせるライブハウスが少ないことを嘆いていた。
敷地は、天竜川東岸の磐田原台地のが洪積層中位段丘にあり、周囲は茶畑とみかん畑である。地盤も良好で地下水位も低く、冠水の恐れもないので、広間の空気的ボリュームを得るため、床レベルは地面より1.050mm下げた。
要求は、 ローコストであること、ライブハウスとしての面積と遮音性の確保、不特定多数の人々が集まるためプライベートスペースを明確に分離させること、そして浜松の夜景が眺められることであった。
人は移動しながら空間のボリュームの変化を感じ、光と彩、風の流れ、素材の質感を認識していく。ルーズな空間の連なりの中にも、その架構によって垂直あるいは水平方向への秩序を得ようと試みた。ひたすら空間を確保しようとする「広間」と、精神的目的を持つ「塔」との共存、さらに住宅と音楽ホールとの主従の逆転がこの住宅を特異なものとしている。
望楼として計画された塔は、すべてを呑み込んでしまう形のない空間の脅威に対する確実な定点として位置づけられ、また日常的にはこの家への案内役として来客を導く。連続したコンクリートの壁は、この建築の地と図に別々の意味を与える。つまり内部においては人を導き、外部においては塔を浮き立たせる背景であり、冬の季節風から守られた中庭を形成する。昼間は、スリットからの光が塔を支える室内の柱を照らし、逆に夜は、室内の光が外部の柱を浮き立たせている。
広々としたポーチを通り、玄関に入る。突然、目の前に柱が立ちふさがる。階段を下り、塔へ連なる螺旋階段と角柱の脇を抜けホールに佇むと、視線は借景を取り込んだ北面の大窓に導かれる。広間の列柱と中庭とホールを貫く列柱は、15°の傾きをもってラーメン構造を形成している。これは遮音のための圧倒的な壁の圧迫感を軽減するのに効果的であることを意図したものである。
匂坂氏は工事中、毎日のように現場に足を運び、コンクリートの打設には木槌を持って参加した。工事そのものによっても、自らの人生に刺激を求めたように思える。つまり彼は竣工前から「表象空間としての家」に住み始めていたことになる。
工事の開始される直前の’ 89年の夏の建築費の高騰は、匂坂氏の病気の進行を知らされていたわれわれの苦闘に追打ちをかけた。死を予感していた彼が、人生にいかに節目をつくるかを考えていたことは想像に難くない。匂坂ホールをつくらせたのは、ひたすら出会いを楽しむ心の余裕に尽きる。
’90年12月、匂坂氏は第1回のジャズライブをプロデユースし、その5ヵ月後、肝臓ガンで婦らぬ人となった。(享年39歳)匂坂ホールは、丘陵の茶畑に、素朴なロマネスクの教会のように佇んでいる。