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頭陀寺の庭
青林山頭陀寺は遠州きっての古刹である。多くの戦乱で焼失を繰り返し、特に第二次大戦の空襲によって致命的な被害を受けた。
1970年代の都市化にともなう土地区画整理事業の道路によって「境内」と「墓地」に分断され、寺の森はますます縮小化をよぎなくされた。しかし分断されたという受け身の発想を転換して、この道路を通る人は皆、寺に来てくれた人ではないかと考えることにした。
時の流れには逆うえないながらも、かえって分断されたことによって、地域の人々とお寺との交流が深まるしかけを工夫することができるのではないか、と考えた。そのためにはます公道を内部化して、「境内」と「墓地」が親しまれる所とならねばならない。そうすれば地繊の人たちと寺との交流はさらに深まるであろうと思われた。
去る5月にはここでやきもの楽市も聞かれ、多くの人で賑わった。本計画の赤サビた鉄板とRC造の白壁による構成は、狭い場所と限られた予算から導かれた、ぎりぎりの解決方法である。この計画は現代ならではの「境内」と「墓地」のあり方を考えようとするものである。
最初に「境内」と「墓地」の場所の独自性を明確にしなければならない。そこでそれぞれを「水平」の庭、あるいは「垂直」の庭とイメージしてみる。「境内」は日常生活と密着している。そこは人間としての日常的な行動の場で、寺としての伝統的な様式を要求される場所である。収束的でなく、むしろ散漫で水平方向に拡がっていく場所である。もちろん「墓地」もこの世の人のためのもので、そこで人は死者を弔い、先祖を偲ぶ。信じる者のみが命の連鎖を信じ、いわば次元を超えた飛躍がなされる場所といっていい。これは多分に詩的な思考方法であり、非日常的な行為といえる。
「境内」の水平的といえる日常生活に対し、「墓地」は垂直的な想像力が飛躍する場である。「境内」と「墓地」の景観の違いは、この特性にあると思われる。
日常的・伝統的性格をもっ「境内」の塀はRC造の白壁とし、寺の基調とした。公道の内部化は計画の最大のねらいである。公道に面して池や庭を「境内」と「墓地」にそれぞれ配置した。さらに、「境内」と「墓地」を直線的に結ぶ2ヶ所の入口も、内部化するためのしかけである。樹木が育って、緑のトンネルができるのも望ましい。
一方、非日常的な「墓地」は、赤サビた鉄板による平面的あるいは立体的なフレーミングによって、開放性と閉鎖性を調節した。外からは墓石は見えないが、いったんこの道路に入れば、通りすがりに手を合わせることができる。フレーミングによる陰影感や視差、あるいは遠景と近景の並置による遠近感、といった人間の認識の特性に着目し、いわば囲うことによって限られた空聞を拡げようとした。この道路に閉塞感は感じられない。
ここは、かつては老朽化したブロック塀や万代塀によって囲われ、人々が足早に通り過ぎる場所であった。しかしいまここは「境内」側に掘抜き水が流れる池と、赤サビた鉄板の薄肉性を生かした開放的芯構成がされて、シャープなエッジの白御影石とともに垂直方向へのリズム感を憎帽している。
「境内」と「墓地」を分断した公道に、かつての閉塞感はない。正月に取り替えられる青竹は、人々に新年の訪れを知らせる。また墓地の軸であるしだれ桜や、工ントランスの百日紅が季節ごとにみごとな花を咲かせ、墓参りの人を誘う。池にはメダカも泳ぎ、ささやかなオアシスとなっている。
ここを通る人はすべて寺に来てくれた人である。